日本皮膚科学会キャリア支援

日々の戦略的思考日々の戦略的思考

西部支部 2019.9.7(土) 16:10~18:10

皮膚科医として 私の第二ステージ

三苫千景(愛皮膚科クリニック 福岡市)

三苫千景私は1997年に九州大学を卒業して九州大学皮膚科学教室に入局しました。2003年末に結婚し, 娘は中学2年生、息子は小学6年生になりました。結婚後は2つの総合病院、九州大学病院皮膚科(油症ダイオキシン研究診療センター、油症センター)、アメリカでの生活、油症センターに復職と、数年ごとに勤務地、居住地が変わりました。母になって14 年間、いろいろな苦労がありました。娘を出産し、小倉にある病院宿舎と付属の保育所、病院間の数百メートルの行き来で一日が過ぎていった頃。息子を妊娠中、26週の時に切迫早産の診断を受け、勤務先産科に入院した時。ベッド上安静で持続点滴を受ける生活は11週間続きました。37週で退院許可がおり、翌週息子を出産した時の嬉しさは忘れられません。反抗期の子供たちの言動にいらいらした時はこの時の辛さを思い出すようにしています。 そして、主人の研究留学に家族で帯同し、アメリカテキサス州で過ごした4年間。娘は4歳、息子は2歳の時に渡米しました。私もポスドクとして働く選択肢もありましたが、広大なテキサス州では移動に常に車を要し、渡米直前に取得したほやほやの運転技術で家族のサポートに専念しました。言葉の壁や日本人家族との濃密な付き合いに戸惑うこともありましたが、今は楽しかった思い出しか浮かびません。日中は皮膚科成書を読み、ネットでatlasやdermatopathology quiz を行うのにあて、週1回MD Anderson Cancer CenterやUT Southwestern Medical Centerの皮膚 科カンファレンスに参加するうちにキャリア中断に対する不安も消失しました。
帰国後の私には皮膚科診療、油症班業務、「西日本皮膚科」編集業務を行う忙しい日々が戻りました。帰宅後も家事の合間に度々メールをチェックし、持ち帰り仕事をし、帰国後2年間は子供の学校行事にほとんど参加できませんでした。高学年になった娘は家できりきりしている母に反発するようになり、これではいかんと主だった行事には有給休暇を取って参加し、週末には子供の友人を家に呼び、子供とのコミュニケーションを取り戻しました。 今年の4月からクリニックに勤務しています。成長した子供たちの環境が大きく変わる前に自分の職を安定させたいという気持ちが転職を後押ししました。出産後も皮膚科医を続けてこれたのは "皮膚科" が好きだからだと思います。短気な私を支えてくれた家族、節目で相談に乗ってくれた同期にこの場を借りて感謝します。
西部支部 2019.9.7(土) 16:10~18:10

自分で考え自分で決める

吉岡はるな(産業医科大学皮膚科)

吉岡はるな医学部に落ちた18歳、私は若くて無知でした。 同じ医療の道だと思い看護学部に進学してみたら、そもそも医療行為の前提となる法律がまったく違う。どんなに高い志や信念があっても、医師免許がなければ自分には決定権が無い。自分がやりたいことは医師の仕事であると改めて自覚し、遅ればせながら医学の道に進みました。
卒後すぐに皮膚科学会に入会、初期臨床研修も皮膚科研修が充実した病院を選びました。研修医が終わる頃には何でもできるような「無敵感」を感じていましたが、この無敵感は大学に戻ってすぐに打ち砕かれることになります。見たことも聞いたこともない疾患、治療困難な症例、専門用語も分からない、病理がよめない、宇宙語が飛び交うカンファレンス。先輩医師達も通ってきた道であるが故に、若者が大変であることはある意味当たり前といった雰囲気。あの無敵感はどこへいってしまったのか。「できない自分」と向き合うのはとても辛いことでしたが、この頃は「できなくても許される」時期でもあったと、今になって思います。だからこそ何にでもチャレンジすることができたし、大きな学会や海外の学会を経験し、英語論文を書くことができたのは大きな励みになりました。
その後、同じ皮膚科の医局員である夫と職場内結婚し、 皮膚科専門医を取得した後に産休・育休に入りました。 お互い実家が遠方であり、ジジババの協力は得られませんので、復帰後に私が当直でいなくても夫ひとりで一通りの家事・育児はできるよう教育(?)しました。その際、「手は出さないが口も出さない」を徹底し、今でも夫婦二人三脚でゆるく家事・育児をしています。
キャリアデザイン講座8年目を過ぎた頃、今度は自分が後輩たちの指導をしなくてはいけない時期に差し掛かります。これまでは何をするにも上級医のバックアップがあり、難しいことでも安心して挑戦することができましたが、逆の立場になった時に同じように指導してあげられるのかと問われれば、答えは NOであると気が付きます。指導するには「なぜそうするのか」という根拠を明確にする必要があり、これまでの自分の知識や手技を見直す必要があると感じるようになりました。
現在卒後13年目になり、大学では皮膚腫瘍・皮膚外科をメインに診療を行っています。若手という時代は過ぎましたが、ベテランという立場でもなく、まだまだ自己研鑽に努めなければなりません。なりたくてなった医師という職業、自分が目指すものは何か。しっかりと根拠をもって診断し、複数の治療方針を立て、個々の患者さんにとっての最善を提供するように努めること。困難な状況に対峙した時、正解がないことを恐れないこと。自分で考えて判断し、その判断に責任 を持つこと。自分で考え、自分で決める。これができるようになったら、苦しい時や大変な時でも自分を助ける力になるのではないかと思っています。

メンティーからの声

熊本大学坂元亮子

大学を卒業後皮膚科に入局し16年目にして初めてM&M会にメンティーとして参加させていただきました。生きている限り悩みは尽きないものです。どうして私だけ...とか、こんなこともできない自分はダメな人間なんだ、とか自信をなくす日々。そしてそれは身近な人には相談しにくいものです。このM&M会の醍醐味はテーブル毎の相談会です。各メンティーの経歴と悩みに合わせたメンターとのマッチングが絶妙で、相談会というより座談会のようにざっくばらんに心の内を吐き出してスッキリ。 つきまとう漠然とした不安や不満を緩和する糸口になりました。折しも長女の14歳の誕生日で、今は気軽に相談できるこのような場がありますが当時は独りで悶々と悩んでいたことを思い出し、それでも皮膚科医を続けてきた自分を褒め、支えてくれた家族、同僚、先生方に感謝の思いを強くしました。これからもたくさんの老若男女の皮膚科医がこの会を通して、明日への自己成長に繋がりますように。素晴らしい会を企画支援してくださいました委員の先生方、真摯に話を聞いてくださったメンターの先生方、本当にありがとうございました。

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