日本皮膚科学会キャリア支援

ラパマイシンゲル 誕生物語

医学者なら研究だけでもいいかもしれないけども、
臨床医なら患者さんに役に立つことをしないと


金田眞理

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多田弥生 鷲尾健
対談金田眞理 × 多田弥生 鷲尾健
金田眞理

金田眞理

昭和55年3月 愛媛大学医学医学科卒業
昭和60年3月 大阪大学大学院医学研究科博士課程了
昭和62年2月 算面市立病院皮膚科勤務
昭和63年12月 カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)留学
平成12年4月 大阪大学医学部皮膚科非常勤講師
平成19年7月 大阪大学医学部皮膚科講師
平成26年4月 大阪大学附属病院病院教授(兼任)、現在に至る
令和1年5月 大阪大学医学部皮膚科准教授

多田: ラパマイシンゲルの誕生物語ということ で、いろいろ御苦労された箇所や、ここがちょっと 失敗したなというところや、 ここは、工夫すべきだっ たなっていうところを振り返りながら聞いていきた いと思います。

結節性硬化症との出会い

金田: 学生時代から神経に非常に興味を持っていました。ですが、小児科のお子さんを扱うのはなかなか難しいなと感じておりました。そのうち、だんだんと皮膚科に興味をもつようになりました。
たまたま大学院のときに核膜の構成成分を扱っていて、見つけた特殊な蛋白を生成してきたんです。その蛋白質が関与している疾患がないかと探していたときに、どうも結節性硬化症で減っているということがわかり、 結節性硬化症に関わるようになっていきました。

多田: ラパマイシンゲルの誕生物語ということで、いろいろ御苦労された箇所や、ここがちょっと 失敗したなというところや、ここは、工夫すべきだったなっていうところを振り返りながら聞いていきたいと思います。

金田: そうです。その蛋白が関与していそうなのが、結節性硬化症だったので、結節性硬化症からスタートしました。最初、結節性硬化症の患者さんで皮膚科に来ているのが1人しかいなかったんです。 それで、上の先生に「こんな疾患をやって将来的にどうするんだ」と言われていたぐらいでした。小児科の先生に、「こんな疾患を診てますから患者さんがお られたら紹介してください」とお願いに行ったりもしました。
当時たまたま泌尿器科と皮膚科が同じ病棟フロアで、回診のときに、患者さんの顔をパッと見たら結節性硬化症なんですよ。多分、腎臓の血管 筋脂肪腫で入院されていたのでしょうね。 それで泌尿器科の教授に「あの患者さんを皮膚科に紹介して ください」とお願いしたりして、患者さんを集め出したのが始まりです。
本当に、1人2人という患者さんから始めたというところなんですよ。

多田: まだ結節性硬化症に対する有効な治療がない頃ですから、検査をして早期に病変を見つけるというということくらいしかできなかったと思うのです。最近だと治療のための内服薬とか出てきましたが、恐らく先生が始められた頃というのはなかったですよね。そうすると患者さんたちは、どういった理由で継続的に先生のところに通われたと思いますか?

金田: 最初の頃は小児科など他の科と一緒に来られているという患者様が結構多かったんです。当時、 結節性硬化症として診ているところはほとんどなかったんですね。例えば、泌尿器科で、血管筋脂肪腫は診ているけれども、結節性硬化症は、全然考えていないと。
皮膚科でも同様なんですね。レーザー などで治療をされているんだけれども、その患者さんが結節性硬化症ということを全然気がついてない先生がおられるとか。そんな中で、最初は本当に1人で腎臓から全部診ていたんです。患者さんにとっては、私のところへ行ったら、全身的なものを診てもらえるという思いがあったのではないかなと思います。多分口コミだとか、なにかのニュースを見られてとか、そういうもので、徐々に、集まって来ていただいたのかなと思います。

研究との両立法

多田: 研究をされつつも、夜は2時ぐらいまでお仕事をされて、朝もすごい早くからいらしていて、 しかもご家庭も、お子さんが、4人いらっしゃるんですか?

金田: はい(笑)

多田: 大変な中で、お子さんたちをどうやって育てていらっしゃるんだろうって。そこまでして診療を継続できる先生のモチベーションというのはどこにあるのでしょうか?

金田: 我々の時代は産休も貰えないような時代でした。実は私、当直日誌に朝サインを書いた日にそのまま病院に行って子どもを産んでいるんですね(笑)。なんとかバランスを取りながらやっていました。人生は非常に不思議なもので、必死でやってい たら周りから、見ていられないという感じで、手を差し伸べてくださったり。いろいろな人からのサポートがあってなんとかやってきました。
ただ、助手や講師になるという話が出たときに、 きっちりしたポストをもらうと、それなりの Dutyは増えてきますよね。頑張れば、普通の人がやるDutyを果たすことはできると思うんです。ただ、それプラスやりたい研究をするのは難しい。そこで教授に「研究生のままやらせて下さい。」とお願いし、できるところまで続けることにしました。

多田: 長く研究生でいらっしゃったんですか?

金田: 結構研究生の期間が長いんです。10年以上あるんじゃないですかね。それもお金を払いつつ...

多田: お金を払っていたんですか?

金田: 研究生だから払わないといけないです。さすがに教授のほうが気の毒がってくださって、収入はないけども、お金を払わないでもいいというようなポストをくださったんです。当時、私はポストなんて名刺の片隅にかかれるかっこいいかざりぐらいのものかなとは思っていたんですけれども、現実には、グラント1つ取るにしても、きちんとしたポストがないとできないことに気が付きました。
だから若い先生方には、もしポストの話がきたら、絶対引き受けるように、と言ってます。ポストをもらう事によって、将来も研究を続けられたら、自分だけでなくまわりにもプラスですので。

>多田弥生

多田弥生

平成 7 年 6 月 東京大学医学部皮膚科入局
平成 14 年 4 月 米国国立衛生研究所(NIH) 膚科留学(研究員)
平成 17 年 4 月 帝京大学医学部皮膚科・助手
平成 18 年 4 月 東京大学医学部皮膚科・助手
平成 20 年 4 月 東京大学医学部皮膚科・講師
平成 23 年 3 月 立正佼成会附属佼成病院皮膚科・部長
平成 25 年 7 月 帝京大学医学部皮膚科学講座・准教授
平成 29 年 4 月 帝京大学医学部皮膚科学講座・主任教授、現在に至る

外用薬の製薬へ

多田: 外用剤のアイデアに至った経緯をお伺いしたいのですが、患者さんを診ていく中で、なぜその外用剤が必要だと感じられたのですか?

金田: 結節性硬化症の患者さんの症状の程度は非常に様々です。いろんな程度の患者さんがおられる為、精神発達遅滞などがありますと、ちょっとした治療をしようと思っても、全身麻酔をかけないと何もできなかったりします。治療はしたいけれど全身麻 酔はさけたい。痛くなくて簡単に使えて安全な治療法が無いだろうかと多くの患者様がおっしゃいます。 そんな中で飲み薬ができたのですが、飲み薬は元々、 免疫抑制剤や抗癌剤ですので、長期使用ということになると、それなりの副作用を考えないといけない。
それで、ご家族の方とのやり取りのなかで、塗り薬みたいに塗るだけで良い薬があったらよいのに。それなら、うちの子にでも使えるんだけどというお話しがありました。どの親御さんも同じような思いを持っておられてたので、私自身も痛くなくて全身麻酔を かけないでもできる治療がほしいなと思いました。 医学者なら研究だけでもいいかもしれないけれども、 臨床医なら患者さんに役に立つことをしないと、と思って、じゃあ作ろうかと言って始めたのが元々だったんですね。ただ、もちろんそのときは自分で作るというよりも、どこかの製薬会社に頼んで作ってもらおうかなと思ったんですけれども、どこもいい返事をくれない。じゃあ、製薬会社が作ってくれない なら仕方がないから自分で作ろうかというのが、そもそも始まりですね。

多田: 製品化に向けて、あちこちの企業に断られたという事ですが、そのなかで何か学びはあったんでしょうか?

金田: 1つは、どの製薬会社にも、やるのなら特許を取って欲しいといわれました。製薬会社は企業ですからやはりもうけないといけない。希少難治性疾患のように患者数が少ない疾患はなかなか手を出してもらえないという事もわかりました。どの製薬会社にも営業サイドでは断られていたのですが、研究部門に問い合わせると結構いろいろと教えてくださいました。ある製薬会社さんは、自分のところで作るのは断られたのですけれども、「これはどうしたら良いのでしょうか」とか「このようにするにはどのような方法がありますか」とか、直接研究室の方に聞くと、それなりにいろいろ提案してくれたり、教えてくださったりしたので、事業としては引き受けてもらえなかったけれども、研究室レベルでは又違うのだなという事を教えられました。

多田: なるほど。製薬会社を色々と回る中で、外用剤のヒントになるようなことも学ぶ機会はあったんですね。断られて、じゃあ、特許取らなきゃいけないっていうのが分かって、次のステップはどうされたんですか?

金田: ちょうどその頃、治験などに国が本腰を入れ始めた初期の時期だったと思います。いまほど規則でがっちりしていない状況だったので、とりあえず、10人とか15人位の患者さんで治験よりもう少し小規模の臨床研究でやり始めました。もちろん、倫 理委員会は通して行いました。いまほど、臨床研究をやるのに、厳しい条件は課されていなかったので、 お薬代だとかだけこちらが持てば、そんなに法外な費用がかからないで出来ました。ところが、やっていくなかで困ったことが2つ起こりました。
1つは、 塗るときれいになるし、臨床試験の間は塗れるんだけれども、やめると結局塗れなくなる。塗らなかったら、また再発してくる。
もう1つは、遠方の人は阪大まで来ないと塗れないんですね。いつでもその患者さんが塗りたいときに塗ってもらおうとすると、 治験をしてお薬にして販売してもらわないとできないという話になりました。それで、治験をしようということになりました。
ちょうど厚生労働症のグラントで治験をするというのがあったのでそれに応募しました。グラントの申請条件にも特許を出しているかどうかというのがあり、それまでも製薬会社さんから特許を出しておいて欲しかったと言われることが多々あったので、まずは特許を出そうという事になるのですが、それまでの臨床試験は厚生労働省のグラントで行っておりましたので、厚生労働省の報告書に臨床試験の結果を報告してしまっておりました。報告してしまった事は公知になって特許の対象になりません。
血管線維腫では特許がとれないということがわかりました。ちょうどそのころ、白斑もラパマイシンの外用薬で治るというデータが出てきた時でしたので、白斑では、まだ誰も特許を取っていないからこれを主にして出しておきましょうということで、 大学の知財部に何をしたらいいんですか?と聞きに行きました。知財部は書類をくれたのですけど、ややこしくて最初は書類を出すのにすごい時間がかかりました。

多田: 特許に出されるときには、もうすでに外用剤はできていたのですね?

金田: 自分たちで作った院内調剤ですね。どういう製法で作るのかというのも、それが1つ特許にはなっているわけなんです。特許では、当初自分たちで厚労省の報告書に書いてしまったので公知でとれないという、ちょっと苦い目にあったので、その後は報告前に小さなものでもこまめに特許を取っていこうとするようになったわけです。

多田: 細かい話なんですけど、外用剤を作るときの基剤と、それから中に入っている原末はどうやって手に入れられたんですか?

金田: 基剤に関しては、そんなに特殊なものではないですので、薬剤部で製剤していた先生がよくご存じだったのでお伺いしました。
ただ、原末のほうに関しましては、いわゆるGMPレベルの原末でないと患者さんには使えないんです。純度ということになると遥かに試薬のほうがいいんですけれども、試薬は人には使えないので、最初は飲み薬を壊して、成分を取り出してき て混ぜていくようなことをしていました。

多田: 手作りですね。

金田: 一応 GMPレベルで、薬剤部でやってもらっていました。ただ、そうやっている限り、やっぱり賦形剤が入って来ますし、厳密な量が計れません。 そうすると治験ができないんです。しっかりとした製剤をつくらないと治験ができません。そういういきさつで、どこかでGMPレベルの原末がないかと探すこととなりました。GMPレベルの原末を置いているところというのは、インド、中国、ブラジルなどで、 アメリカやヨーロッパの国にはなかったんです。そのなかでいろいろ購入しやすさなどを考えて、最終 的に中国から購入することになったんですが、中国から購入するときに、大学の経理に、「この企業から 原末を買うから、私の治験のグラントから購入費を出してください」と言ったら、「いや先生、そんな正体が明確でない会社にこんなお金払えませんよ。先生、自分で先に出してください。ちゃんとお薬が来たら、立替払いして頂いた金額を返します」と言われて自分で出しました(笑)。

多田: おいくら?

金田: 100万ちょっとですかね。返って来なかったらどうしようと思いましたけど(笑)。

多田: それでいざ、治験スタートっていうかたちになったんですよね。

金田: そうですね。患者さんは待っておられて、まだですか?まだですか?と催促されておりました。
希少疾患・難病ではありますけれども、患者さんを集めるのは全然問題なくて、むしろ入れない人をどうやって、説得するかが大変でした。

多田: 希少疾患というところで、I、II相からスタートをされて、治験の中で実際に使われてみた感じはどうでしたか?

金田: あの薬は本当によく効くんです。だから、 ダブルブラインドですけれども、患者も医者もプラセボか実薬かどっちが当たっているか治験をやっているうちにわかると言われました。治験の期間は、 最初に臨床試験をやるときの費用の問題とか患者さんの来るタイミングとかがあって12週としたのですが、あとから長期試験を終了して振り返ってみると、12週というのは実は、非常にいい効果判定期間だったのです。全くの偶然なんですけれども、効果としては差が非常に明瞭になるポイントでした。特に子どもは12週までは急速に良くなるんですね。そのあと、良くなる速度が鈍るようになります。大人だと子供と比べて軽快速度がゆっくりの人が多いです。 1 年ぐらいまで見ると結局子供も大人も同じところまでいくんですけれども。子どもの患者さんも多かったですし。これも不思議な縁なのですが、医師 主導治験を始めた時期もたまたま一番良い時期を選んだのかもしれないなと思っています。国が医師主導治験に積極的になり始めたけれど、いまほど特定臨床研究法や、治験関連の法令によりがんじがらめで動けないというほどでもない、ちょうどいい時期だったのかもしれないなと振り返って思います。

多田: 治験が終わって、そこでJAMAにご発表されたんでしたっけ?

金田: I、II相の試験の結果を報告しました。

多田: JAMA Dermatologyですよね。その後、企業を見つけIII相をやられたということですね?

金田: まずは企業を見つけないと、AMEDからのお金を切られてしまうので、それで、いろいろな会社に頼みました。まずは、日本の製薬会社さんにお願いしたところ、リスクがあるからとか、色々な理由で結局は引き受けてくださらなかったです。シロ リムスの内服薬を発売しているファイザー社のアメリカ本社にも伺いましたがリスキーと言われました。そのような逆境下でしたが、希少疾患などを引き受けている企業のノーベルファーマ社にお願いすることになりました。
ただ同社は、シロリムスの内服薬のLAMに対する治験をされたので全く関係ないわけではなかったのですがね。

多田: 希少疾患というところで、興味を持ってもらえたというところですよね。

金田: そうですね、希少疾患のほうがいろいろと優遇される面がありますし、オーファンドラッグで通れば、それなりにいろいろやりやすいところがあるので、多分希少疾患だからいけたのかなとは思っているんですけれども。

多田: その過程になるとだいぶ苦労とかあんまりなくなってきている?

金田: そうですね。医師主導治験として行ったI、II相の試験は、資金の準備から治験の計画書の作成、PMDA との交渉など全て自分たちでやるわけですよね。しかしIII相の治験は企業治験でしたから、製薬会社が主体で、前述した様々な事は製薬会社がお膳立てをして、我々は試験をするだけなんですね。 そういう意味では、我々にとっては非常に楽でした。

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